知覧特攻平和会館

 多田実著 『硫黄島玉砕 海軍学徒兵慟哭の記録』朝日文庫 を読んでいる。「散るぞ悲しき(硫黄島総指揮官・栗林忠道)」が栗林中将という指揮官、職業軍人の家族との手紙を通して太平洋戦争の矛盾を暴いた小説だとすれば、本書は硫黄島に送られた海軍学徒兵たち、即ち若い非職業軍人の記録である。

 「散るぞ悲しき」の栗林中将は総指揮官であったから、食べ物にも飲み物にもほとんど苦労していない。ウイスキーや酒にも苦労していない。それは家族に宛てた手紙の中にも「物資は充分なので何も送らなくて良い」という意味のことが書いてあったと思う。一方、『硫黄島玉砕 海軍学徒兵慟哭の記録』は、学生を中心に促成栽培の教育を受けて硫黄島の最前線に送られた人たちの記録であるから硫黄島の戦闘の実態がどのようなものであったかが分かる

 今回、鹿児島に出張があった。色々、太平洋戦争について本は読んでいるが、特攻基地のあった知覧の知覧特攻平和会館に行ってみる事にした。

 鹿児島中央駅前、東口16番バス乗り場8:07発、知覧特攻観音行バスに乗る。特急か急行かと思ったら普通の路線バスでがっかり。約1時間半掛かって、終点の知覧特攻観音に着く。知覧特攻平和会館には特攻隊員たちの遺影や遺書、隼や飛燕等の特攻機が展示されていることは事前に調べていた。約2時間もあれば、充分であろうと考えていた。

 入口を入ると順路があり最初に特攻隊員の英霊コーナーに遺影と遺書や手紙が展示してあった。
 遺影と遺書を目の前にすると思っていた以上に迫力があり、胸に迫るものがある。遺影の若者達は皆しっかりした顔立ちで生きていたら日本をリードする立派な人になったのだろうと思う。それは 『硫黄島玉砕 海軍学徒兵慟哭の記録』に出てくる偶々生き残った人々の多くが経営者や会社の要職についていることでも分かる。
 航空特攻での死者4000人。知覧からは17歳から32歳の若者や家族持ちが飛び立っていった。
 遺書には勇ましい言葉を残しているものもあるが、少しでもその心中を察するのは、後世の人間の務めだと思う。

 視聴覚室での説明を聞いたりしていたら予定していた帰りのバスの時刻11:36が近づいてきた。約2時間では完全に未消化であった。
 時間が余ったら知覧武家屋敷群も見て帰ろうと思っていたが、そんな時間は全く無かった。次の機会にまたゆっくり来よう。

 帰りは30年ぶりに大学に寄ってみようと騎射場でバスを降りて、荒田周辺を大学に向かって歩いたが、自分がどこを歩いているのか、全く分からない。それ程、建物が変化していた。これでは大学も大きく変わっているだろうと構内に入ると毎週クラブが活動資金集めの為にやっていたダンスパーティ会場はそのまま残っていた。生協や学生会館もそのまま。京セラの稲盛さんの寄付か、新しい建物も建っていた。理学部は外見は新しそうだが、どうだろう。図書館は立派になっていた。

 土曜日だというのに学生達は多く、生協の食堂も賑わっていた。メニューがどうなっているか、良く分からなかったが、一品料理は200円代でかなり安く食べられそう。ひょっとしたら30年前とあまり値段は変わっていないかも。2,3日前に桜島の降灰があって、学内は少し灰色で埃っぽい。理学部の掲示板を見てみると何!1枚は「試験中のカンニングにより処分」、もう1枚は「コンビニでの万引きにより処分」の通知。よく考えると30年前にもいた。平気で生協から万引きするやつが。それが現在は宮崎県庁の上級職職員なんだから。そいつは教員採用試験にも合格してた。20代で日本の為に死んでいった青年がいるかと思えば、万引きをして何とも感じない連中もいる万引きといえば最近は老人の万引きが多いとか。生活苦によるものらしい。まあ、それにしても万引き大国日本か。娘が中学時代に言っていた。同級生の半数は万引きしていると。

 今度は住んでいた下宿は残っているのかと気になりだした。工学部前からJRを跨ぐ鉄橋に登って紫原に登る道を眺めるが良く見えない。振り返ると目の前にドカンと桜島が大きく見える。30年前は毎日この桜島を眺めながら3畳一間の下宿から大学に通っていた。決して真面目な大学生ではなかった。というよりも完全な落ちこぼれだったかも。まあ、それでも社会に出て何とかやってきたからいいか。

 さらに歩を進めていくとM商店が残っていた。賞味期限過ぎの牛乳なんかを平気で売っていた親爺が嫌いだったのだが、店は生き延びていた。紫原への方向に進もうとしているところに丁度、唐湊住宅行きのバスが来て、転回していた。ラッキー!帰りはこのバスに乗って鹿児島中央駅まで戻ろうと思う。バスの出発まで8分位しかない。2分程度坂を登っていくが昔の面影は全く無い。道も狭く感じるが、こんなに狭かったのかと昔の記憶を辿る。そしたら見えた。30年前に住んでいた下宿がそのまま建っていた。あまり近寄るのは何となく憚られたし、時間の余裕も無かったので、そのままバスに引き返した。今でもあの3畳一間で生活している学生がいるのだろうか。

 鹿児島中央駅のアミュプラザでラーメンを食べる。“こむらさき”と“ザボンラーメン”が並んでいるが、客が一番並んで待っていたのは“ザボンラーメン”の前の蕎麦屋さんだった。結局、“こむらさき”で食べたが、味は今一。今はネットで調べると食べ物屋のクチコミも多く、情報が氾濫しているが、信じられる情報は中々少ない。ラーメンが950円。あの金龍320円の3倍の価値があるかと考えたら絶対にないと断言できる。塩辛いスープと独特の白い麺。創業昭和25年だったか、それなりに続いているということは好きな人間もいるのだろうが、このレベルが鹿児島の人気店とはレベルが低いと思う。因みに食べたこと無いけど熊本ラーメンの“こむらさき”とは関係ないそうです。

 そういえば、昭和49年に鹿児島に住み始めて7年間。鹿児島ではあまりラーメンを食べた記憶が無い。唯一、生協で食べた味噌ラーメンが旨かった。フライパンで肉と野菜を炒めて、スープを加えて、味噌を加えて、煮込んで、茹でた麺と混ぜる。肉と野菜と味噌のこってりラーメン。これは旨かった。

 ちょっとがっかりしながらビールとワンカップを買って帰途へ。30年経つと町並みがガラッと変わっていたことが残念だった。
 作っては立て替え、作っては立て替え、生涯賃金の大半を土地と家に注ぎ込んで生活のレベルが向上しない日本人の生き方。商店もビル群も同様。
 何か間違っているような気がする。エコとか、何とか言いながら、結局は消費拡大しなければ生きていけない日本社会。

(2010年6月6日 記)

追記
 鹿児島中央駅で土産物を見ていたら“食べるにんにくラー油?”だったか、ニンニクスライスのラー油漬けが売っていた。これは島根の道の駅で見たのと全く同じ商品。なんで島根の道の駅で売っているのと全く同じ物が鹿児島中央駅でも売っているのか?容器も外見も同じ。結構、旨かったので今度島根に行ったらまた買おうと思っていたのに。騙されたようで腹がたってくる。島根も知恵を出して特産品を開発したか、と感心していたのに。
 調べたらこの商品、ネットショッピングでわんさかと出てくる。こんなものを全国の駅や道の駅で特産品の振りして売ってどうするんだと思う。
 これと同じ全国版土産物として葛もどきで餡を包んだ商品。大阪で見たのとほとんど同じ商品が置いてある。高速のSAでも良く見る。
 地方の時代とか、何とか言って、結局、全国共通の商品を特産品のふりをして売っているじゃないか。
 こんなことをしているようでは、地方の時代も来ないと思う。情けない。

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